今年は、赤ん坊が手がかかるのやら、去年あった物珍しさという動機が少なくなったせいやらで、 裏庭の畑はほったらかしであった。日本の良好な気候によって裏庭はジャングルと化していて、 余計に立ち入れない感じになっていたのだが、 先日近所の人がマムシを見掛けたと聞く。
まずいな。
ご近所に迷惑になってそうな気分全開になったので、 草刈り機を借りて草刈りとする。でも、使ったことないんでちょっと緊張する。 格闘数十分、正直疲れた。なんか有用な植物も含めて全てなぎ倒してしまった。
で、後でこの刈った雑草の山を片付けねばならんな。
『時間泥棒』に続くひさびさに読んだJ.P.ホーガン作品。
目が覚めたら7ヶ月後の見知らぬ土地で、 自分の街にたどり着いたら、「自分は死んだ」と言われてしまう。 そればかりでなく、「自分だと思っている人物」と「今の自分」とでは、 姿形も含めてまったくの別人らしいのだ。 いったい自分になにが起こったのか。
という、ある意味ホーガンらしい「なにが起こったのか」と引きつけるようなイントロ。 しばらく読み進むうちに、どうやら(人工的な)多重人格が関係するらしい、というところまでわかる。
ミステリ仕立てのストーリーを読むうちに「これはもうひとひねりあるに違いない」と確信したが、 それがどのような「ひとひねり」なのかはわからなかった。 説明されてしまえば「ああ、そうか」というようなものなのだが、 ある意味、気持ちよくだまされた。
正直、面白かった。
この話自体はハッピーエンドで終わるのだが、 このテクノロジー以後の世界はいったいどうなるのだろうか、という不安を感じた。 そこについては一切言及しないのもホーガンらしいような。
先日の「言語設計者のランチ」でGuidoが言ってたことがブログのエントリになってた。 情報提供してくださった、むらたさんに感謝。