以前、KodakとSunの訴訟について、こんなことを書いた。
要するに、この和解はJavaやOpenOffice.orgのために、ということだが、戦ってこの危険な特許という「地雷」を永久に取り除いた方が「ためになった」と思う。残念だ。
これに対して、このようなコメントをいただいた。
「誰でも考えることをあらかじめ登録して地雷にするのがソフトウェア特許だ。」と、そのように断定はできないでしょうと思う。
米国特許法においては、発明時点において誰でも考えつくこと(自明であること)は、特許にならない旨が、第103条に規定されていますから。
<中略>
特許は企業の武器だし、不意に争いになるから「地雷」なのだろうけれど。
地雷は、表面からは全然見えないので、避けようがないけれど、特許になったものは全て公開されているし、インターネットでも検索できる。見えてない訳ではない。
<中略>
だから、そのような相違を考えずに、「米国で問題になっているからソフトウエア特許はけしからん」という論調は、ちょっと牽強ではないかと感じる。
個別の論については「そういうこともある」と言えないこともないが 全体としては、いくつか同意できない点がある。
まず、「地雷」という単語について。 もちろん、アジるためにこのような単語をわざと使っているのだが、 さすがに「すべての特許は地雷である」という主張はしていない。 主張しているのは「特許(特にソフトウェア特許)は地雷になることがある」である。 奥村先生が「誰でも考えることをあらかじめ登録して地雷にするのがソフトウェア特許だ」とおっしゃったのも、「ソフトウェア特許の多くはそのような使われ方をしている」という意味だろう。
問題を引き起こしているのは以下の二点で、ちょうどshiranuiさんが述べておられる点でもある。
「自明なことは特許にならない」とは限らない。
特許審査官が先例を発見できなければ特許は成立するわけだが、 特にソフトウェア分野の知識を持った審査官は不足しているようだ。 伝え聞くところによると日本はそれでもずいぶんマシで、 アメリカはかなりひどい状態だそうだ。 だから「特許が取れているから新規性がある発明だろう」とは必ずしも言えないということだ。 アメリカのソフトウェア特許・ビジネス特許は「本当に新規性があるのか」というものが目白押しだ。 全部がそうであるわけではないだろうが、そのようなものもあることは事実だ。 特許については「出願したもの勝ち」という傾向は確かにある。
「特許は公開されている」から見えている、とは限らない
確かに特許は出願後一定期間を経れば公開されるので、隠されているわけではない。 しかし、星の数ほどある特許から、自分の事業が(偶然に)侵害しているものがないことを確認するのは、 それほど容易なことではない。少なくとも「インターネットでも検索できる」レベルでは現実的ではない。 逆(つまり特許公報を見て、その適用を考える)のは比較的楽だけどね。 しかも、調査時点でまだ公開されていない特許はどうやっても調べようがない。 定期的に弁理士の人に相談するなど相当のコストをかけなければ、 「公開されているから大丈夫」などということはできないだろう。 というか、いくらコストかけても不可能かも。
これらは特許全般の問題で、アメリカの特許制度の問題ではない。 日本であまり問題が起きていないように見えるのは、日本がアメリカほど訴訟社会じゃないせいと、 知財保護があまり強力でなかったせいだろう。今後知財政策はアメリカを見習うそうだから、 こういう問題はどんどん増えるんじゃないだろうか、
では、そういう状況で、特許を地雷にたとえるのは適切なのか。
私は以下のような点から、適切だと思っている。 もちろん、「地雷とみなせる特許がある」という意味でだが。
まあ、特許の属地主義とか、アメリカ特許と日本特許の違いとかいろいろあるが、ここではおいておく。
shiranuiさんは
この「ソフトウェア特許論」に対して、この日記で書いてみたいのだが、書くからには時間が要る。その時間が。
とのことなので、時間ができるのを期待しつつ、気長に待つとしよう。 でも、今野先生に反論するのはけっこう大変なことだと思うなあ。