先週開かれた第174回半期総大会のビデオを見る。 今日見たのは、土曜午前の部会、土曜午後の部会、神権部会の計3本、6時間。
さすがにこれだけの時間パイプ椅子に座ってビデオを見続けるとお尻が痛くなる。 4時間見た時点でクッションを手に入れたんだけど、手遅れだったみたい。
実はインターネットストリーミングで事前に音声は聞いていたのだが、 私は音声だけでは集中できないタイプみたい。視覚から入るというか。 単に集中力がないと言うか。 映像があって、話している人の表情もあってはじめて耳に入ってくるというか。
そういえば、同じく先週開かれたRuby Conference 2004も音声が公開になっているのだが、 入手しただけでまだ聞いてないこれもやっぱりちんぷんかんぷんなんだろうな。
今回は新しい使徒が二人召された。神の使い手としての使徒(apostle)について改めて考える機会があった とともに、重要な責任をきちんと果たしている人々に尊敬の念を覚えた。 また、自らをふさわしく整え、キリストの名にふさわしくありたいとも思った。
「キリストを信仰する」のではなく、「キリスト教に対して一種の信仰」をもってしまう人々のお話。
ほそのさんの気持ちはよくわかる。 実際、過大な期待をされることってそんなに珍しくないしね。
でも、結局は「知らないこと」が原因なんじゃないかなあ。 日本の現状では、ほとんどの人は身近にクリスチャンがいないわけだし、 そういう状態で実体と異なる期待を受けるのはキリスト教に限らずなんにでもあることだと思う。 私にだって神道やユダヤ教やイスラム教に対して先入観がないと言えばうそになる。 信仰があるぶん、理解しやすい点もあるけれど。
たとえば、
幸いにして、僕の友人は、僕の宗教に関係なく友人づきあいをしてくれるし、僕がキリスト教徒であることを当てにしない。僕も普通に友人づきあいをすればいい。
っていうのは、ほそのさんの友人は、ほそのさん(というクリスチャン)を十分知っているから、 「事実と異なる期待」を持たないですんでいるのではないだろうか。
「キリスト教信仰がある」ってことは単に「キリスト教(の実際)」が知られていないってことではないだろうか。
むしろ、否定的なイメージを持たれず、良い期待をされると言うことは、 過去のクリスチャンの良い行いの集積の結果であり、 喜ばしいことではないだろうか。 その期待を引き受け、できるなら応えようとすることは「キリストの名を負う」ことであり、 「十字架を背負う」ことの一部ではないかなあ。
いや、無茶な期待には応えきれないんだけど、実際。