夏休み3日目。妻は息子の小学校の給食試食会なのだそうだ。 私が小学生のころと違って、 なかなか魅力的なメニューが提供されることが多い最近の給食の試食というのは 面白そうではあるのだが、 生徒一人あたり親一人ぶんしか提供されないとのことなので、 私は末娘とお出かけすることに。
日中、1才児とふたりだけで出かけたことはあまりなかったので、 ちょっとどうなることかと思ったが、 思ったよりも聞き分けが良く(最近は反抗期なのだ。口癖は「ヤダ」と「自分でやるッ」)、 かなり楽しい時間が過ごせた。
長女の誕生日。ずいぶん大きくなりました。
「小学生の頃、こんなことを考えてました」という話。 まあ、小学生でもいろいろ考えるよね。
私は右目で見るのと左目で見るので色味が少しだけ違っている。 右目で見た方がやや黄色みがかっているのだが、 これをもって「一人の人でも見え方が違うのに、他人はいったいどう見えてるんだろう」と 深く考え込んだことがある。結論はいまだに出ていない。
小学生の哲学で思い出した。 そういえば、小学生の頃、人間の(正確には、自分の)心は三階層になっていると思った。
つまり、
の三層だ。考えている時には言語(日本語)を使うわけだが、 頭の中で日本語をつむぎながら、次に何を話すか考えている。 これは言語よりももうちょっと構造化されていない概念のリンクのようなものだ。 これが第二層。
これらが連携しているから、アイディアを練りながら文章が書ける。 概念のリンクからより表層に近づき文章になる。
が、よくよく自分の心を観察すると、第二層の概念の引き金となる もっと下の層が感じられる。これはあんまり制御されないし、 心の奥のほうから第二層にどんどん概念を突っ込む感じ。
結局、人間の発言とか、作文とかは、一番奥の第三層から出てきたものを 第二層でリンクしたり、フィルタリングしたりして、 第一層で言語化したものなんだ、と一人納得していた10歳くらいの私。
あの頃は「心」に興味があって、心理学者とか精神科医にでもなろうと思っていた。 ま、いろいろ挫折して今に至るわけだが、 いまだに人の心は扱っているような気がする。だいぶ違う形だけど。