また司会だ。今日は前回よりは緊張しなかった。少しずつ慣れてきてるんだろうか。 良いことかどうかはわからないけど。
男の子が女の子の友達を連れてきている。 今日のお話はちょっとむずかしいのが多かったんだけど、 お話の間、いろいろと解説したりしている姿に感心する。 なんだかいつもよりずっと立派に見えるぞ。あ、ちょっと失礼か。
今週も青少年クラスを教える。 教えたいこと、ちゃんと伝わったかなあ。 もうちょっと事前に準備しておくと良かったかもしれない。 いつも、準備しているときには「もう大丈夫」って感じるんだけど、 いざ本番になると(なんとかこなせるものの)ホントに十分だったことは少ないよね。
それは人生においていつものことか。
途中具合が悪くなった人がいて、もうひとりの副監督が病院に連れていく。 結局、ちょっと疲労が溜っただけだとのこと。 頭が痛い、吐き気がするとかいうから、脳梗塞とかそういうのを心配しちゃったよ。 まあ、不幸中の幸いというかなんというか。
先日のOSS Roundupの質問にこんなのがあった。
どこかのブログでオープンソースとキリスト教は相性がよいなどということが書かれていましたが、宗教などとの相関関係を、GNUが宗教だ!といったネタ話でなく、どうお考えですか?
それに対して八田さんは「GNUは宗教です、イヤ、マジで」とか返してた。
私はと言えば、その場では「あんまり関係ないんじゃないですか」なんて返答してたんだけど、 まあ、キリスト教の精神のうちオープンソースの動機と関係がある(ことがある)ものが ないわけじゃない。
たとえば、
という言葉がある。 「受けるよりは与える方がさいわいである」とはオープンソースの生態系を維持している 「動機」を説明しているような気がしないでもない。
私の気持ちを良く説明しているのはこっちかな。 これは「黄金律(golden rule)」と呼ばれることもある有名な言葉だ。
私は、たくさんのソフトウェアのソースコードが自由なライセンスで公開されてほしい。 だから、自分のソフトウェアを自由なライセンスで公開するわけだ。
これには「白銀律(silver rule)」とでも呼ぶべきバリエーションがあって、 それは
人々にしてほしくないと、あなたがたの望むことは、人々にもしてはいけない
である。ソフトウェア特許で訴えられたくない人はソフトウェア特許に手を出してはいけない、 とかいうような感じか。
だから、オープンソースとキリスト教の相性は悪くないと思うよ、うん。
もっとも、これはオープンソースのすべてを説明しない。 金銭のためにオープンソースにかかわる人、 ソフトウェアの自由に関心がなくても仕事としてオープンソースにかかわる人なども いくらでもいる。
そういうことを含めると、一般論としては「やっぱ関係ないんじゃないですか」になってしまうかな。 ま、そういう考えもあるということで。