essaさんによるわかりやすい解説。
しかし、私の文章はターゲットが明確でないのか。もうすこし検討の余地があるなあ。 実際には「開発者」と「中間層」しか対象にしてない文章でも 「エンドユーザ」的立場で読むと違う印象を与えるかも。
というわけで、あらためて489471275Xを読み返す。 少々泥縄ぎみ。
最初読んだ時には、えらいわかりにくいなあと思ったが、今回はわりとすんなり頭に入る。 「入門」とは書いてあるが、きっとある程度の知識と経験を要求する本なのだろう。 だが、このわかりにくさは翻訳のせいではないかと疑う。原書は読んでないけど。
4756100503ほどタイトルに偽りがあるわけではないが。 そういえばこれも翻訳の問題だ(原題は『Object-Oriented Software Construction(オブジェクト指向ソフトウェア構築)』。全然入門じゃないじゃん)。
社内MLで
と書いたら、「Matzにっき」はHackerとしての立場で書いてるんじゃないの、と聞かれてしまった。
えーと、この日記は「Matzの日記」つまり私のいろいろな側面を反映してます。 Hackerとして書くこともあれば、父親として書くこともあります。 オープンソースのことを書いてる時には、 オープンソースエバンジェリストのつもりでいます。
エバンジェリスト(伝道師)といいながら、実際問題、上手に宣伝活動ができてるとはいいがたいけど、 すくなくとも話題を提供し人々に考える機会を与えることには成功したかも。 オープンソースに悪い印象を持つ人も出たみたいだけど。涙。
反省すべきは、私が文章を書く時に対象にしている相手の立場がはっきりしていなかったことだろう。 実際に予想以上にいろいろな人が私の文章を読み、いろいろな印象を持ったようだ。
で、私が「オープンソース」という単語に対してどのように接してほしいのか、 ということを立場ごとに書いてみることにした。これはもちろん私の希望であり、 強制されるたぐいのものではない。
また、あらゆる立場を網羅することは不可能なので、典型的な3つだけを考えてみた。
つまり、オープンソースソフトウェアのユーザである。 オープンソースソフトウェアを単に利用するだけで、別に開発に参加しようなんて考えてない。 タダなのはありがたいなあと考えているくらい。
このような人に対して期待することは 「オープンソース」ってのは単に「ソースを公開」以上の意味があるんだよ、 ってことだけ理解してほしい。OSDを理解する必要なんてない。 「それ以上」がどの程度かなんて知る必要もない。 「+α」の部分があることを知ってもらうだけで十分だ。
ソフトウェア開発者にはもうすこし理解してほしいことがある。
それは自分のソフトウェアを一般に配布する時には、 バイナリ配布の無料ソフトウェアでもなく、 独自のライセンスのソフトウェアでもなく、 OSD準拠のライセンスを持つオープンソースソフトウェアにする方が結局は有利だ、ということだ。 これだけでいい。
なぜそうなるのかについては、これからおいおい「啓蒙文書」を書いていこうと思う。 とりあえずはEric Raymondの文章を読んどいてくれ。
「中間層」ってのは前にも説明した通り、開発者とエンドユーザをつなぐ役割の人のことだ。 たとえばディストリビュータだったり、システムインテグレータだったり、 シンクタンクの人だったり、官僚だったり、ベンチャー企業の人だったり、IT関係の記者だったり。 ベンチャーキャピタリストは...、入らないかな、もしかして。
そういうような人には期待することがひとつある。ひとつは、OSDの存在を理解してほしいことだ。 中身を完全に理解する必要はない。存在を忘れないでほしいだけだ。 ただ、「オープンソースとは」なんて説明をするときには自分勝手な定義を人に紹介しないで、 OSDへのリンクを張ってほしい。少なくとも「ソース公開+α」であることだけが伝われば良い。
中間層にはこの期待に応える理由がある。前にも言ったが「オープンソース」という単語は道具である。 そして、それは誰のための道具かというと実は中間層にとってもっとも有効な道具なのである。 オープンソースって単語に残っている「今までと違う」イメージは、 キャピタリストからお金を取ってくるのに役立つかもしれない。 潜在的顧客に自分の優越性を印象づけるのに役立つかもしれない。
そのような道具の効力を維持するためには「オープンソース」という単語に なにか不思議な「+α」があると思わせておく(って実際にあるんだけど)必要がある。
わざわざ自分の道具を捨てる必要はない。
これなら「OSD原理主義」などとみなされることはないかな。 べつにどう見なされてもいいんだけど、OSDに関しては原理主義じゃないしな。
私は開発者としてはフリーソフトウェア開発者で、 フリーソフトウェアであればOSDなんてどうでもよいと思う気持ちもある。 でも、まだ残っている「オープンソース」というコトバの効力を失わせず、幸福の総和を増やすためには この程度のことは最低限必要だろうと思っている。
世の中には、ほとんどオープンソースソフトウェア (この場合は「ほとんどフリーソフトウェア」といったほうが良いかな)でありながら、 微妙な条件によってオープンソースソフトウェアと見なされない 「気持ちだけオープンソースソフトウェア」というのがある。
たとえば、バイナリの再配布を許さない
*1
qmailなどのdjbソフトウェアや平和利用に使用目的を限るHORBなど。
原子力関係には使うなってライセンスもあったな。
うちの会社がかかわっているORCAプロジェクトもOSD準拠でない(精神は満たしている、らしい)
ライセンスになっている
*2。
そういう条件を付けたいのは本人の気持ちや事情の問題ではあるし、 なんとなくわからないでもないんだけど、 そういう条件のない「普通の」ライセンスにした方が、エンドユーザもコミュニティも中間層も楽になって、 幸せの総和が増えるんじゃないかと思う。
手話による勉強会に参加する。あれはすでに別の言語だ。全然単語が覚えられない。
今日覚えた単語
しかし、きっとすぐに忘れてしまうだろう。というか、もう忘れているものもあるな。