というネタを温めていたのだが、どこかの日記で同じような記述を見つけてしまった (しかし、再び探すも見つからない)。くやしい。
要するに「作家は(晩年に)自分の複数の作品世界をリンクした作品を書きたがる」傾向があって、 個人的にはその典型例から「バイオレンス・ジャック症候群」と呼んでいたのだ。 ってCLAMPってまだ若いんでないかと。
ここは是非、モノリスとオーバーロードとラーマと軌道エレベータが同時に出てくる作品が読みたいものだ。 クラーク先生はご存命だから、まだ間に合うはず。
あるいはロボット3原則とファウンデーションが同時に出てくる作品を...。
え? もうあるって? やっぱり。
「オープンソースソフトウェア」という単語から 「ソースが公開されているソフトウェア」という定義を捏造してしまう輩には もはや辟易しているのだが、 これに対しては地道な啓蒙活動を続けるしかない。
「オープンソース」って単語にはきちんとした定義があるんですよ。以上。
こうやって「俺定義」を気長に潰していくしかない。 うるさいと思われても、気づくたびに指摘していくことになろう。
しかし、オープンソースソフトウェアとフリーソフトウェアって実際のところ、なにがどう違うのだろうか?
ストールマン的な観点に立てば、最大の違いは
だろう。しかし、「オープンソース運動」の陣営だって自由を気にしていないわけじゃない。 本当に気にしていなかったら「オープンソースの定義」は 単純に「ソースが入手できるソフトウェア」であったことだろう。 自由は「オープンソース運動」にも必須なのだ。
ただ、技術的な問題から「オープンソース」の方がちょっと広い*1 ということはある。
以前、このような「違いの定義」を聞いたことがある。
しかし、私自身の考えとしては
じゃないかなあ、と感じている。
開発者は自分のソフトウェアをフリーソフトウェアにするかどうかを決めることができる。 誰かに尋ねる必要はない。そして、「ソフトウェア開発者よ、自由を分かち合え」と叫ぶのが、 フリーソフトウェア運動である。
一方、自分が開発していないソフトウェアについて、そのソフトウェア開発者が自由を人々に与えようという 意思があるのかないのか判定するのは難しい。聞いてみれば良いといっても、 いつも連絡が付くとは限らないし、その人の自由の定義が人と違っていて意思の疎通に苦労するかもしれない。 こういう場合には客観的な基準が必要だ。その客観的な基準がOSDであり、その基準を満たすソフトウェアを 推奨しようというのがオープンソース運動である。
なんてことを考えたのだが、これだけではまだ「オープンソース運動」の全部を説明しきれないなあ。
*1 ASPLのようなものが通ってしまう