オモイカネの大熊氏から「日本発オープンソースは42件」ということについて 反論[PDF]が出た。
が、私に限って言えば、 久米氏の講演には「42件」という数字だけでその基準は明らかになっていなかったことだけをとりあげていたので、 別に反論していただく必要はない。
疑問を呈した時点で、 大熊氏の元の資料の存在は知らなかったわけだが、そちらの方を読む限り、基準は明確になっている。
という基準を満たすのが、氏によると42件なのだそうだ。
まあ、基準が明確になってめでたしめでたし、としたいところだが、いまだに引っかかるところがある。
この4つの基準のうち、「オープンソースソフトウェア」を除いた3つに関しては、 大熊氏が恣意的に決めたものであるが、もっとも目的にかなった数字を出すためにどこかで線を引く必要があるということで、基準が明確である限り、受け入れることに問題はない。 問題にしていたのは、基準が明らかにされないまま「42件」しかないと断言されたことなのだから(そしてそれには大熊氏には責任がない)。我々が少ないと感じたのは、我々は「一定規模」とか「良く使われている」とかの基準を共有しなかったからに過ぎない。
5000行や「よく使われている」にはそれほど意味はないと思うけど、それは立場の違いということで。
どうしても無視できない問題はこのリストに「オープンソースソフトウェア」でないものが含まれている点だ。
その点について大熊氏も「反論」の中で
と述べておられるが、これは見当違いである。 繰り返しになるが、少ないと思ったのは「5000行以上」で「ディストリビューションに含まれる」という基準を共有していなかったからで、それが明確になった後では数が減るかどうかはもはやどうでも良い。 むしろ適切な基準が適用されているかどうかだけが重要である。
大熊氏はこの資料について
と述べておられる。
数を数えることを目的としなかった資料の中の数字が講演で引用されたばかりに独り歩きしてしまったことは、 大熊氏にとっても不幸だとは思い、同情もするが、 「発想を広げていただくため」だろうがなんだろうが、 誤解を生まないためにOSIが苦労して明確に定義した「オープンソース」という単語をないがしろにするのは、 OSIにも個々のオープンソース開発者にも失礼である。
たとえ基準の中で
と定義していたとしても、それはやはり問題だと思う。
「フリーソフトウェア」あるいは「自由なソフトウェア」ほどではないにしても、「オープンソース」という単語も また思想や信条を反映したものであり、その思想信条を表現するために定義されていることを忘れてはいけない。 その定義を自分勝手に改変してしまうことは 他人の思想や信条を大切にしない行為であり、それしかよりどころのない 「オープンソース」や「フリーソフトウェア」活動にとって致命的な問題であると考える。
さらに
という発言からは、「オープンソースかどうかなんてどうでも良い」という大熊氏の考えがよりはっきりうかがえる。 「5000行」、「ディストリビューションに含まれる」という恣意的な基準を導入しておきながら、 結果の数が期待より少なければ、そちらの基準を変えるのでなく 「じゃあ、オープンソースじゃないけどこれも足しとこう」 ということになる発想はオープンソースの定義を軽んじていると言われてもしかたがないと思う。
氏はVzエディタでかつて実現されたようななんらかの「オープンソース的なもの」のイメージをもっておられるようだが、 それはやはりオープンソースではない。別のものには別の名前が必要だろう。
もちろん、政策を語る時に重要なのはライセンスではなく、経済効果、産業競争力であるという考え方は 理解できるし、
という言葉が間違っているとまでは言わない。
しかし、オープンソースの定義やその背景の思想を無視してしまえば、 後に残るのは単なる「無料ソフトウェア」でしかない。 個々の開発者が共感し実践している思想抜きでオープンソースが存在できるかといえば、 ほとんどのケースで「否」なのではないだろうか。 オープンソースあるいはフリーソフトウェアの思想を背景とする開発者なしに単体で 「ネットワークに密着したソフトウェアの開発・流通・マーケティングの構造」 が成立するわけではないのだ。
ということならば、「OSIの定義を厳密に適用することには意味がない」とは言えないのではないだろうか。
むしろ、「意味がない」と言えてしまうのは、オープンソースに対する表層的な理解から来るのではないか、 ということを危惧してしまうのだ。
我々フリーソフトウェア開発者が個々のユーザから対価をもらわず日夜開発を行っているのは、 自らの思想の実践であり、ソフトウェアの自由を実現するためである。
ユーザには我々の思想をないがしろにする自由があるのだろうか。 たぶんあるのだろう。しかし、少なくとも私は愉快ではない。
東京に行ってIPAヒアリングに参加する。 予定された時間を大幅にオーバーしてプロジェクトの目的や計画について説明を行う。 実際に採択されるかどうかは結果の公表待ちということになる。
オープンソースで食べていくというのは、それはそれは大変なので、 公的な支援を受けられるということであれば、それが不当なものでない限り、 喜んで受けようと思うのだ。
しかし、東京という街はなんでこんなに歩かせるんだ。 日帰りのスケジュールもあって大変疲れた。あさっても東京なんだよなあ。
今朝、書いた
という表現に関連していろいろとツッコミをもらう。
要約すると「私は自由を実現するためにフリーソフトウェアを書いているわけではない」ということのようだ。
いや、まあ厳密に言えば、全員が同じ動機でフリーソフトウェアを書いているなんてことはありえないので、 直接的な動機はさまざまあると思う。ちょっと考えただけでも
などなどが考えられる。
しかし、考えてみてほしい。
これらの理由のうち、「ソフトウェアの自由」に間接的なりとも関係しないものが存在するかどうかを。 過去のフリーソフトウェア(オープンソースでもいいけど)という「実績」があればこそ 公開する気になったんじゃないだろうか。
「無料でソースコードまで手に入るソフトウェア」は、その利用者にとってはこの上なく都合が良いだろう。 利用するにあたっては妙な制限は少ない方が良い。思想や信条なんて邪魔なだけだ。 そう思う人もいるだろう。気持ちはわかる。
しかし、思想や信条を手放してしまえば「ソフトウェアの自由」は危険にさらされるのではないか、 思想や信条を抜きにして利用者の都合ばかり考えていては、 フリーソフトウェアの供給は維持できないのではないか、 私はそれを危惧するのだ。
「ソフトウェアの自由」を手放す時、 フリーソフトウェア開発者はソフトウェアをタダで産み出す便利な存在に 成り下がってしまうんじゃないだろうか。今でもしばしばそう思われているのに。
我々は搾取の対象ではない。
これは杞憂だろうか。