というのは確かにその通りだと思います。もっとも、
という対策で満足できる人も多かろうとは思いますが。
さっそく、原稿に取り込もう。ありがとうございました。(_ _)
初等協会の活動として、子供たちを連れて教会とその隣の宣教師のアパートの周辺の草とりをする。 かなり生えてた雑草を片付けて気持ちよくなった。 で、すっかり疲れてしまったりすると、普段の運動不足を実感したりする。
「blog」と「にっき」を区別しない などと書いたものの、数日間日記をつけてみると、やはりこれは違うものだと感じるようになった。
blogは、〆切や分量などの制約はゆるいものの、 やはり雑誌の記事やコラムなどに近いものが本来のあり方なのだろう。 新聞や雑誌の記事で「今日は子供と草刈りをした」なんて個人的な話題を読まされたら、 あまり気分は良くないように、ある程度読み手もなにかテーマに沿った一貫性のある記述を期待しそうだ。 ただ、既存のメディアとは違い、blogは個人に所属しているので、 パーソナルな記述が現れるのはむしろ当然で、それが日記との区別を難しくしているのだと思う。 また、パーソナルな記述があるがゆえに既存のblogのメディアより面白いという点もあると思う。
一方、日記のあり方はまったく逆だ。 一貫したテーマに対する「記事」にパーソナルな記述が入り込んでいるblogに対して、 日記は基本的に日記なので、自分の生活に起こったことも、その時に考えたことも、なんでもありだ。 紙の日記と違って、不特定多数の目にとまる可能性のあるWeb日記でも、原則は同じだろう。 極端にパーソナルな誰が読むかわからないから書けないことはある けど、日記ではパーソナルな記述こそ主体である。
まあ、blogと日記はあくまでも便宜的な分類で、blogのような日記も、日記のようなblogもあり、 またその中間にも連続的に存在している(だろう)ことが話をややこしくしている。もっとも、 読者にとっては、重要なのは「読んで面白いかどうか」で、blogらしいとか日記らしいとかは、 面白さとはまったく関係ないのだろうとは思う。
で、今後私はどうするかというと、やはり、たあいのない日常の当たり障りのない記述と、 折々の興味あるネタに関する長めの考察の入り交じった「日記」を書き続けるのではないだろうか。 少なくとも書くことに飽きるまで。
4834030326 ここのところ息子が誕生日に買ってもらった4834030326を 毎晩1章ずつ読んで聞かせてやっている。 今はちょうど4834000354のまん中あたりだ。 全三巻のこの話、すごく有名なのに子供のとき読んだことなかった。
息子は保育園でなんども読んでもらったことがあるらしく、先の展開までぜんぶ知っているのだが、 知っていることそのものが嬉しいらしく、かえって喜んでいる。 そういえば彼はいつも読んだことがある絵本を借りてくるのだ。 安心感があるのか?
4834000109 しかし、最近の白眉はやはり4834000109だろう。 これまた子供のときに読んでなくて、子供に読んでやったのがはじめてだったのだが、 日常的な風景がいつのまにかファンタジーになってしまっている様子が心に残った。 積み木の船がごく自然に大海原に出帆してくじらをつかまえて帰ってくる話とか。 しかし、息子にとっては当然のようであまり感動していなかった。 そうか、彼にとってはこれこそが今生きている世界なのだな。 私も昔そうだったのだな。
同じようにファンタジーに迷いこむ絵本としては、 4834000508や 4834008738がある。 「てぶくろにクマがはいるかっ」とか「おふろにクジラがはいるかっ」とツッコミたくなるのだが、 そこが良いのだ。どちらも(私も子供たちも)大好きな絵本だ。