長女はそろそろ思春期と呼んでもよい年ごろなので、最近反抗したがる。 私自身は第二次反抗期がなかったので(そう、本当になかった)、 なかなか理解してあげられない。
今日も「教会に行きたくない」ということなので、1時間ほど話を聞いた。 いろいろつもりつもった感情のいろいろがあったらしい。 話したいだけ話させて、いろいろ聞いた後、 いくつかお互いに改善の約束をした。 今日は岡山に行くはずで行けなかったのだが、かえって良かったというものだ。
私にとっても学ぶことが多かった。
あれだけぐずぐず言っていた長女も、お昼ごろにはけろっとしていた。 根は素直ないい子なんだよな。うん、うん(親馬鹿か)。
聖文にこんな言葉がある。私の好きな言葉だ。
ここでの「わたし」は主、つまり神さまである。
人間には弱点がたくさんある。その弱点が長所になるというのだ。なんと希望のある言葉だろう。 小さい時からこの言葉の希望が好きだった。 でも、自分の弱点がどうやって長所になるんだろうと、疑問に思っていたのも事実だ。
だいぶん歳をとった今ならちょっとは分かる気がする。
私は子供のときから数学が苦手だった。あらゆる科目の中で数学だけ飛び抜けて悪いのだ。 あと、物理や化学も成績はそんなによくなかった。数式の扱いが下手だから。
今思えば、私にはある程度以上複雑なものを扱う能力が欠けているのだと思う。 小学生レベルの単純な算数ならなんとかなるが、数学のレベルが上がって、 ある程度の複雑さを備え、応用力が要求されると、ある閾値を越えて、理解できなくなってしまうのだ。
これは今でも私の弱点である。
しかし、言語設計者としてはこの弱点は長所として働く(ような気がする)。 つまり、私のような弱点がない人は複雑さを恐れない。 彼には理解できてしまうから。 しかし、私は理解力に人より低い限界があり、それを自覚しているので、 Rubyの複雑さは(確かにRubyは複雑な言語だが)、 ある一定のレベルで収まっていて、 それがこの言語の魅力につながっているのではないかと思うのだ。
以前、Dave Thomasの「なぜRubyが設計できたのか」という質問に、 当時は「なぜ他の人が似たようなものを作らないのかが分からない」と答えたが、 今なら「私の弱点が功を奏したから」と答えるかな。
昔から数学について劣等感を感じていたのだが、最近はそうでもなくなった。 今でも数学に強い人には憧れるけど。
ひとつ、確信していることがある。 Damian Conwayには私の弱点はないだろうということ。 そしておそらくはLarry Wallにも。それがPerl6にとって良いことかどうかは知らないが。