先日(といってもアップロードしたのは今日だが)、 『オープンソースの光と影』という スライドを公開したら、塩崎さんから反論というか批判というかをいただいた。この意見に対して同意はしないが興味深い。
まあ、客観性などという言葉にだまされてはいけないやね。 私は、 オープンソースの客観性 というものは全く認めない。確かに、定義により 「OSD 準拠のソフトウェア = オープンソースソフトウェア」なのかもしれないが、 しかし、オープンソース運動というのが思想的プロパガンダであることを考えると、 機械的に「OSD 準拠のソフトウェア = オープンソースソフトウェア」という定式を適用することは、「OSD 準拠のソフトウェア」 を勝手にオープンソースのプロパガンダに使ってることに等しい。 これが「OSD 準拠」と言うことと、 「オープンソース(ソフトウェア)」と言うことの本質的な違いだと思う。 思想的プロパガンダに利用するようなことを、単に「定義により客観的」だから「開発者の意図とは関係ない」 と言うことが許されるべきなのだろうか。
たとえば、「日本国民 = ほげほげ党員」という定義を考えてみよう。 かなり勝手な定義だが、確かにこの定義は客観的だ。しかし、ほげほげ主義を信じているかどうかに関係なく、 あるいは、実害があるかどうかに関係なく、この勝手な定義およびその客観性という大義名分によって 勝手にほげほげ党員にされたら誰だって嫌だろうし、「日本国民はみんなほげほげ党員です。ほげほげ主義は素晴らしい!」 なんていうプロパガンダをされたら嫌だろう。 要するにそういうことだな。「ほげほげ主義は素晴らしいから許されます!」 とかアホなことを言い出す奴が出ないことを祈る。
まあ、百歩譲って 「OSD 準拠」のものを単に「オープンソース(ソフトウェア)」と呼ぶのが 「悪い」ことなのかどうかはともかく、少なくとも「失礼」なのは確かよね。 オープンソースという言葉の定義を勝手に別の定義で置き換えることを 「失礼」と言う のならば、 勝手にオープンソースという物を定義して、 その勝手な定義にしたがって勝手にオープンソースソフトウェアと呼ぶことの 「失礼」を認識していてもよさそうなものなのだが。 それが認識できていないあたり、独善と言われても仕方がない。
前にも書いた通り、そもそも「オープンソース」という言葉ができる前から 「オープンソースみたいな何か」という文化があったのだけど、「オープンソース」というのは所詮、 その旧来の「オープンソースみたいな何か」 の文化に対する乗っ取りからスタートしてるからしょうがないのかもね。
いっぱい引用したが、肝心の論についてまず述べよう。
OSD準拠のものをオープンソースと呼ぶのは失礼なのか
私は失礼だとは思わない。議論のため、ある定義を満たすものに名前をつけることはよくあることだ。
もちろん「オープンソースみたいな何か」という文化が以前から存在していたのは事実だが、
オープンソース以前には明確な定義もなく、的確な名前もなかったことは
塩崎さん本人がそれを「オープンソースみたいな何か」と呼ばざるをえなかったことから明らかではないだろうか。
明確に名前がないものに名前をつけ、範囲を確定する行為は自然な行為である。
中にはいろいろな理由から「オープンソース」という用語を好まない人はいるだろうが、 あらゆる人の意向を尊重することは事実上不可能であるため、ある程度「しょうがない」だろう。
では、失礼でないとしたら、問題はなにか。 それを考えるために塩崎さんがあげられた「たとえ」について考えてみるのは有効かもしれない。
うむ、よく出来たたとえに見える。
しかし、「勝手にほげほげ党員にされたら誰だって嫌」なのは、 最初の定義は「日本国民 = ほげほげ党員」でしかないはずなのに、 「党員」という単語の語感によって、本来の「ほげほげ党員」定義に含まれない 「ほげほげ主義に賛同する人」という「別の定義」を導入しているからではないだろうか。 これでは、最初の定義は本当の定義ではないということになる。
最後の「ほげほげ主義は素晴らしい!」についてはもっと論理が破綻している。 「日本国民 = ほげほげ党員」という定義からは 「ほげほげ党員」と「ほげほげ主義」の関連性は引き出せないので、 どう頑張っても「素晴らしい」根拠にはならないはずだからだ。 ここでも暗黙の別の定義が使われている。
語感から本来の定義にないものを導入するのは、やっぱり定義を尊重しない行為だ。 それは少なくとも私のやり方とは真っ向から反対する。 塩崎さんの批判は(定義を尊重しないことを前提にしているので)私にはあてはまらないし、 そういう私の論からそれを引き出すのは、残念であるばかりか、詭弁という印象さえある。
とはいえ、私は塩崎さんが意図して詭弁を使ったとは思っていない。 予想できるのは以下のいずれかだ。
誤解
オープンソースソフトウェアという名前がオープンソース運動に賛同した作者によるソフトウェアであると誤解している。
危惧
オープンソースソフトウェアという名前がオープンソース運動に賛同した作者によるソフトウェアであると誤解されると心配している。
いずれにしても、そういうことがないように「定義」をきちんと説明して、 さらに「客観的」という単語を入れたスライドを用意したのだが、 まさにそこがヒットしてしまうとは、なんたる皮肉。
私は、フリーソフトウェアと違ってオープンソースはプロパガンダであるとは思っていない。 むしろフリーソフトウェアという言葉のプロパガンダ臭を嫌忌した人のためのオープンソースだと思っているのだが、 思想や背景がないとまでは言わない。
しかし、オープンソース運動は「(OSD準拠の)オープンソースソフトウェアを活用する運動」であって、 「(OSD準拠の)オープンソースソフトウェアの開発」のことではない。重要なのはここだ。 OSD準拠のソフトウェアを開発しているからといって、オープンソース運動に賛同する必要も必然も存在しない。 オープンソース運動がオープンソースソフトウェアを利用しているのは事実だが、 OSD準拠のライセンスを選んだ時点でそのような利用を許容している(or そのような利用を制限することはあきらめている)とみなされるだろう。